白紙ソート

早期離職者と採用側のフィルタリング

2016/07/03読売朝刊の選挙争点の欄でパチンコ店を9か月で退職した経歴を持つ人が面接でハネられる話を見た。
正社員になって結婚をしたいと願う人にむごい仕打ちだと憤る一方、採用側の事情にも思いを巡らす。
応募側からはわかりにくいが、採用~雇用にはかなりのコストがかかる。

書類審査や面接準備、面接など人事担当者は多くの時間をかけている。
審査が進むにつれて役員や各部署のトップなども面接に参加するだろう。
採用にかかった時間を時給換算すると相当な金がかかることになる。
つまり、採用ステップが進むほどに採用コストがかさむ。
また、採用後は保険加入や給料の手続きなどでコストがかかる。
当然、給料も払う必要があるのでコストはさらに増える。
もちろんこれには労働による成果を期待した投資という面があるので、ある程度のリスクは会社側も背負わなくてはならない。
(そのリスクを背負わないのがブラック企業だ)
しかし、投資のリターンが十分出ないうちに辞められてしまうとこれは困ったことになる。
それまでにかかった費用が丸損になってしまうからだ。
どこで見たかは忘れたが新卒一人を採用するのに1000万ぐらいかかっているらしい。
そうなってくると採用には慎重にならざるを得ない。
辞めるリスクが少しでも感じられたなら、即刻切ったほうが損する可能性を減らせる。
(上司にも怒られなくて済む)
だから9か月で退職したという「実績」がある人間をリスク回避のために不採用とするのは合理的なのだ。

冒頭の人は残業代が支払われなかったから脱北したのだが、採用側はそんなこと知ったこっちゃない。
(きちんと説明すればわかってくれるかもしれないが。
あるいは逆手にとってだから誠実そうな御社を選んだのです的なアピールもアリか?)
人間には対応バイアスという心理的傾向がある。
人間は誰かの行動を説明するときに、その状況を無視してその人の性格のせいにしてしまうのだ。
今回の例でいえば、残業代未払いという企業側の問題が原因なのに、性格に問題があるから辞めたのだと思われた。
そしてリスク回避のために落とされた。

「1年持たずに辞めた」というバッドステータスは消すことができない。
消したら消したで「何してたの?」と突っ込まれるのがオチだ。
この状態で就職するとしたら、退職リスクを恐れないような会社を探すか、バッドステータスを無視させるようなアピールをするしかない。
結婚のことをチラつかせれば、生活的に辞められないはずだと思って無視してくれるかもしれない。
相手が合理で動くならば、それに適うように対応を考えるしかない。

再チャレンジしやすい環境を整備してほしいと冒頭の人は訴えた。
それは政治がやらなければいけないことで、真っ当な叫びだ。
ただ、同時に現状を認識し、対応を考え、打てる手はすべて打っておくことは忘れないようにしてほしいと思う。
政治へ要望するのも、採用させるようなアピールを考えるのも、一つの手段でしかない。
問題を解決するための手段は多ければ多いほどいいのだ。
嘆くのは全弾を打ち尽くした後にしよう。

安定を捨ててやりがいをっていうアレはすごいモヤモヤする

3月22日のガイアの夜明けが有名企業からやりがいを求めて独立とかベンチャーとかソーシャルビジネスとかをやった人の話だった。


やりがい厨死すべしというのは置いておいて、この人たちって結局才覚も能力もあるから仮に失敗したとしてもどっかの会社に就職できるんで、ギリギリ感がなくて冷める。
別にあの人らは遊びでやってるわけじゃないし、安全マージンを取って生きることは全く正しい。
格好つけで何もしない意識高い系でもないし、冷笑したりバカにするもんではないとはわかっている。
劣悪な環境に居る人とあの人らを比べてどうのこうのってのも筋違いな批判だ。

でもなんか現実離れしているというかホワイトカラーの高等遊戯みたいな感じがして・・・。
何も間違っていないけど、なんかもにょるというか、モヤっとするというか、ムム顔になるというか、舞踏会が開かれたお城の窓から漏れてくる明かりや歓声を外で聞いている庶民の気分というか、「ハッ」と冷笑したくなるというか「ケッ」と唾を吐き捨てたくなるというか、「富めるものはますます富み」を見せつけられているというか、持っているのにまだ欲しがるのかと呆れるというか。
プロレタリアートがブルジョワを見るのってこういう気分なんだろうなぁと。
SEALDsが各方面からボコボコにされてるのとか昭和の学生運動が冷笑されてたのと同じ感じなんだろうか。

こういう気分ってなんていうのかね。
やっぱり羨望や嫉妬になるのかしら。
むしろ呆れとか馬鹿馬鹿しさとかのほうが強いだろうか。
金銭的に不安定な現状だから安定を捨てる人間にやるせなさを感じるのかもしれない。
あるいは、やりがいの名の元にグレーな労働環境を放置していた(少なくとも自分はそう思った)前の勤め先への怨みがプレイバックされるのかもしれない。
いずれにせよくっだらねーなぁと思う。
他者の境遇を自分と比較して憂うってのはもう本当にくだらない。
劣等感をバネにというのもあるけど、そのやり方ってキリがないし。
だって上に上がいるから。
やっぱり自己満足の基準というのは決めておくべきだなぁと思った。


企業哲学という労働ポエム

私は自分の価値観を他人に押し付けることは悪いというスタンスです。
稲盛氏の提唱する企業哲学は「人間として正しいことは何なのか」という基準で
考えられた経営思想であり、彼個人の人生哲学です。
これを全社員に共有させることが必須となっています。
つまり、企業哲学という仕組みは、会社という権力が社員に(主に社長の)価値観を共有させるものと言っていいでしょう。
これを拒否することは不可能に近いことから、価値観の押しつけであることは間違いありません。
(社長の意思を無視できる会社員がいるでしょうか?)

押し付けでも「人間として何が正しいか」という思想だからいいじゃないかという意見もあるかもしれません。
しかし、正しさという概念を持ち出した時点で、それは稲盛氏の考える人間的正しさであり、それをふつう個人の価値観といいます。
響きのいい言葉でも自分の価値観を他人に押し付けることに変わりはありません。

それでも常識的にいいことなんだからと言う人もいるかもしれませんが、たたき上げのトップである以上、その思想は会社経営に最適化された思想です。
一見正しそうな言葉のオンパレードですが、その実情は社員を経営上最適化のための調教と言っても過言ではありません。
言い換えれば、労働ポエムです。

もっとも、組織の構成員全ての行動基準、価値基準を統一することは組織運営にとってプラスになるでしょう。
その点では企業哲学というシステムは有効です。
(価値観の多様性が失われるリスクはありますが)
組織の長が管理方法としてその手法を用いること自体は責められることではありません。

しかし、問題は社員側がそれを知らないことにあります。
企業哲学は労働するための人間を生成するためにあるものです。
これによって知らぬままに労働するための心身へ作りかえられてしまうのです。
一言でいえば社畜養成ギプスです。
しかも自分が社畜であることにすら気づけません。

企業哲学は社員の社畜化を目的とした労働ポエムの押しつけです。
このような価値観の強制は可能な限り警戒すべきものでしょう。





なんか敵意ある文章ですが、なんでこんな文章を書いたかというと、前の職場でこの労働ポエムを毎日読まされたのが屈辱だったから。
渦中に書いたメモにはこう書いてありました。
「これは戦争だ
自分の価値観を死守する戦争」
自分にとってナントカフィロソフィーはそのくらいの攻撃だったんですよ。
大体書き尽くしたからもう反撃はできませんが。

「他者との命の共合
命の融合
精神の融合
吸血鬼の本質」
「なんと素晴らしい
それはきっと
素晴らしいの
だろう」
「きっとそれは
歓喜に
違いない」
「だが冗談じゃない」
「真っ平
御免だね」
「俺のものは
俺のものだ
毛筋一本
血液一滴」
「私は私だ」
「私は私だ
私は私だ!!」
「うらやましいね
眩しい
美しい
だから愛しく
だからこそ憎む」
「だからこそ
お前は私の敵だ
敵に値する」
ヘルシング9巻p197

仕事の認識

今月から就活が開始されました。
そこで私の仕事と就活に対する認識について書いてみます。

私の仕事の認識は、仕事=出稼ぎ=単純労働という認識でしかありません。
そして単純労働=苦役+金という認識なので、仕事=苦役+給料が仕事に対する私の認識です。
あらゆる仕事はなんらかの肉体的・精神的負担が発生します。
(負担を感じていないと思い込んでいても)
また、法律上、どんな仕事も給料は確実に発生します。
したがって、すべての仕事は苦役があり、給料があることになります。
そのため、業種も職種も職場も企業名もどうでもいいのです。
仕事=苦役+給料という認識の場合、仕事の選択基準は負担の大きさと給料の高さのバランスとなります。

この基準の場合、企業側に問いたいのはどのぐらいつらいか、その対価はどのくらいかでしかありません。
これらは求人サイトに掲載すれば済む話であり、実際に面接しなければわからないものではないのです。
わざわざ会社に行くような面倒なことをしなくても、ぶっちゃけた話、「入りたいです」→「どうぞ」というようなメールのやりとりで完結してもいいのです。
ゆえに、「仕事=苦役+給料」派から見た場合、あちこちへ出向いて行くような就職活動は無駄なものであり、否定すべきものとなります。
また、転職や退職にも何のためらいもありません。

しかし、多くの人は仕事=苦役+給料+精神的充足感(やりがい、ワイガヤ感、利他感、楽しさetc)と捉えています。
この精神的充足感が厄介なもので、これさえあれば苦役と給料はなくてもいいという風潮を生みだしていると思います。
やりがいがあるから我慢できるなんて理屈を通してしまうと、長時間労働などの労働環境を変えようという気運がなくなってしまい、職場全体の損になります。
そんな環境では社員も辞めていきますから、会社の損にもなります。
当然、個々の社員にとっても望ましい状況とは言えません。
ワーカーホリックでもない限り、つらい状況を自ら望むなんてありえないでしょう。
ラクできるならラクしたいに決まっています。
だからこそ苦役部分に目を向け、それを改善しようと思えるように仕事=苦役+給料だと考えることが大事だと思うのです。

「仕事を好きになれ」の裏にある(かもしれない)もの

「仕事を好きになれ」というエライ人の名言があります。
稲盛和夫や松下幸之助あたりの名言集とかそんなんでよく見られますね。

ただ、忘れてはならないのはこの人たちは経営者であり、会社のために動く人たちだということです。
結局のところ、なぜ仕事を好きになれなどという必要があるのかといえば、それは会社組織内における人的資源の効率的運用にほかなりません。
好きにさせることでモチベーションをあげさせ、より多くの成果を出させることが目的でしょう。
早い話が会社の利益、カネのためです。マニーマニー。
ところが、「仕事を好きになれ」をはじめとする仕事への積極的スタンスを指し示す言葉は、そのことに言及していません。
個人の精神的充足感を満足させるためだけの意味しかないように表現しています。
まるで仕事を好きになることが幸せを実現するためであるかのように。
これはおかしい。フェアじゃない。それっておかしくないかな?

少なくとも一義的には、会社がその組織内で行うすべての行動は、会社の利益のためにするものと言っていいでしょう。
よほどの非常時でもない限りは組織にまったく関係ないことはしません。
だからといって、組織利益中心の考え方が組織の在り方として間違っているわけではありません。
問題なのはそのことを隠して、やりがいなどのキラキラワードでごまかしている点です。
これによって会社側の狙いが覆い隠され、あたかも自分のために言われているような気になり、「会社のため」が「自分のため」にすりかえられてしまいます。
こうなると、会社から要求される「全力で打ち込め」や「あきらめるな」の言葉は
全て「自分のため」に言われていることになってしまい、むちゃな要求に対して抵抗する考えが出てこなくなります。
この状態になると、会社にいいように使われてしまい、下手をすると完全に自由を奪われかねません。
「あきらめるな。君のためだ。休むな。君のためだ。帰るな。君のためだ。」

美しい言葉は不都合なものを見えなくします。
会社人の都合のいいように動かされることのないように、「仕事を好きに」や「やりがい」などのきれいな言葉を会社人から聞いたら、その裏には会社の利益があるんだな、と冷めた目で見ることが必要じゃないかと思います。

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