白紙ソート

無題

ナチュラリストは大嫌いだ。
自然を善性と決めつけ、科学を悪性と決めつける。

お前らだって散々科学の恩恵を受けてきたくせに、いまさら何を言いやがる。
お前らが着ている服がなんでそんなに安いのか理由を知っているのか?
紡績機械や化学繊維が単価を引き下げたからだ。
手織りに戻れとでも?
ああいいさ。人件費がたっぷりと染み込んだバカ高い服を着てステージの上を歩くがいい。

津波で死んだ人々の墓前で自然は素敵だなんて言えるか?
心臓移植を待つ子供を持つ親の前で自然に委ねましょうなどと言えるか?
ふざけるな。
自然にも科学にも善悪はない。
俺ら人間が勝手に善だ悪だと決めつけているだけだ。
自然は何の理由もなく人を救い、何の理由もなく人を殺す。
人間どもはそれを雑に意味づけてるに過ぎない。
科学も人を救い人を殺す。
人類はその扱いが不安定なだけだ。
キノコ雲の下で焼きまくったりパンデミックを終結させたりするんだ。

働かざるもの食うべからず、じゃねえんだよ。
生きる資格を販売するなよ。
強者目線で物事を語って何もしない。
全員が同じ環境でスタートしたらお前らは脱落してるんだよ。
勘違い野郎がガチャ自慢しやがって。
何が差別だ何が人権だお前ら好みの人類を選り抜いて悦に浸ってるだけだろうが。
うるさいんだよ本当に。
ダブルスタンダードを隠して正義ぶってんじゃない。
牛肉ステーキを食ってイルカを愛でる?
牛を殺すのが邪悪で植物をバラバラに引き裂くのがいいのかよ?
過去を礼賛しやがって。
金は幸福じゃないが快適は幸福だ。
戻ることを押し付けんな。
進むことを押し付けんな。
ヒフバエに内側から食い破られても笑っていろよ?
自宅出産した赤ん坊がそのまま呼吸を止めても設備の整った病院に行くなよ?
どいつもこいつもイメージだけで物事を語りやがって。
どいつもこいつもイメージに振り回されやがって。
体制内反体制を気取ってろ。

ああくそったれ死ね死ね死んじまえ。
菜食主義者も動物愛護団体も自然主義者もGNP信者もグローバルエリートも人権屋も全員滅んでしまえ。


あああああああああああああ何でこんなにカッカしてるんだ俺は
めんどくせー

でもちょっと楽しい

多様性は善悪と関係ない

相模原連続殺傷事件から半年、障害者を排除する思想に対して、多様性を認めることの大事さが訴えられた。
が、その理屈だと事件の犯人も認めなければならない。
多様性を認めない人も多様性に含まれるということもあるが、犯人が精神障害者と診断されていることがある。
この場合、加害者と被害者が同時に障害者という多様性のカテゴリに入ってしまう。
「それは間違っている」とおそらく大多数の人が言うだろう。
「善き」障害者と「悪しき」障害者を一緒にするな、と。
なぜこんな矛盾が起きるのか?
それは多様性は単に豊富さを示す状態にすぎないからだ。

例えば生物多様性だ。
生物多様性はカワイイ生き物もカッコイイ生き物も気持ち悪い生き物も人間に害をなす生き物も全部含めたものだ。
これはただ種類が豊富であることを意味するのであって、鑑賞性や有用性の観点からどうこうというものではない。
あるいは百科事典の項目数の多さと同じ意味といってもいい。
そこに善も悪もない。
障害者という言葉と犯罪者という言葉が同時に載っていたとして、犯罪者というのは善くない概念だから除外せよとは誰も言わないだろう。

同様に、人間社会の中の多様性も個々の要素を無視した種類の豊富さを示すものでしかない。
天才も凡人も善人も悪人もLGBTも黒人も白人も障害者も犯罪者もすべてが多様性をなす要素にすぎない。
個々の善悪は何の関係もない。
これは善だから多様性、これは悪だから多様性ではないという仕分けは不可能だ。
にもかかわらず、大多数の人は「道徳悪は多様性に含めない」と勝手に定義を変更している。
だから「常識的に」、「多様性を認めよう」と「あのクソ野郎を追放しろ」が同時に成立する。
障害者という「善」を認め、犯罪者という「悪」を多様性カタログから弾くことができてしまう。
そうなったらもはや多様性ではなく、ある特定の指向を持った一意性でしかなくなるのに。
それこそ優生思想と同じになってしまうのに。

多様性は認められるべきだ。
どんな人でも受け入れる社会は確かに誰もが暮らしやすい社会だろう。
だけど、それがいつのまにか「(自分的に)善い人の集団が多様性だ」にすり替わっている。
そして多様性を掲げながら今日もどこかで誰かが排除される。
何度も言うが、多様性は善悪の概念と関係ない。
善悪というあやふやな基準で誰かを選別してはいけない。
となってはいけないのだ。

倫理道徳を分解解析して再構成したい

現代の人々は倫理観に振り回されていると感じている。
あれをするな、これをしろ、良識を疑う、倫理に悖る・・・。
なぜと問うても、「そういうものだから」で終わってしまう。
とても嫌だ。
この情報化時代に理由なきタブーはそぐわない。
どうであれ価値観の押しつけは悪だ。
それは納得して選び取るべきものだ。
だからポリティカルコレクトネスは死んだ。

倫理道徳を一度分解し解析して意図や意義を明確に理解したうえで再構成したい。
それは従わなければならないのか?
それはなぜか?
突き詰めて突き止めなければならない。
もちろん残しておくべき倫理はある。
今の倫理はすべてが間違いという訳ではない。
ただ、どこぞの誰かに自己を乗っ取られているのは嫌だ。

論理や理性と感情倫理は同じステージだ。
どちらが優先すべきというものではない。
俺が望むのはどれも選択肢として認識することだ。
考えた結果、感情で動くならそれは正しい。
考えた結果、理性で動くならそれも正しい。
感情と理性の妥協でも構わない。
ただしそれは無意識の自動操縦に委ねてはならない。
猶予があるなら、少しでも考えて選択しなければならない。

人間の脳には思考を無意識にショートカットするような機能が組み込まれている。
それは役に立つが、ときに我々を好き勝手に操る。
俺はそれは嫌だから、すべての思考言動を自己のコントロール下に置きたい。
認知バイアスや感情の原因、思想・論理の限界。
そういうものを知って、俺は俺のすべてを管理したい。

アフリカの子供100万人と心臓病の子供一人

ワクチンを受けられないアフリカの子供たちのために寄付を。
重い心臓病を抱えた○○ちゃんのために寄付を。
どちらもたびたび話題に上がる話だ。
病気の子供というコンテンツは我々の関心を誘う。

ところで、両者には大きな違いがあることに気付いているだろうか?
効率性だ。
ワクチンの値段と手術代の間には天地の開きがある。
正確なところは場合による(渡航費用とか為替レートとか)ので無視するが、
仮に
・○○ちゃんの手術費用の合計が1億
・ワクチン100万個の値段が1億
だったとしよう。
さて、○○ちゃん1人を救うのとアフリカの100万人の子供たちを救うのはどちらが効率的だろうか?
言うまでもない。
アフリカの子供たちに決まっている。
同じ費用でより多く救えるんだから、これは極めて合理的な判断だ。

が、現実はそうじゃない。
たいていの人は真っ先に○○ちゃんのほうへ寄付するだろう。
なぜなら○○ちゃんには物語があるからだ。
例えばこんなエピソードを考えてみよう。
「○○ちゃんは他の子と同じように自由に遊びまわることもできなかった」(不幸な境遇)
「経済的に苦しくても両親は○○ちゃんに愛情を注ぎ、献身的に支えた」(愛情)
「死を待つしかなかった○○ちゃん。しかし米国の最先端医療なら助かる希望がある」(絶望からの希望)
これは起承転結の「起承転」にあたる。
そこへ「あなたのわずかな寄付で○○ちゃんが助かるかもしれません」と呼びかけられたらどうだろう。
思わず寄付したくならないだろうか。

○○ちゃんの物語はいわば参加型コンテンツになっている。
寄付することで物語の結末に参加することができるのだ。
結末が成功でも失敗でも構わない。
いずれにせよ、なんらかの感動は得られる。
生還の喜びも死の悲劇もコンテンツとして非常に強いからだ。
寄付者はわずかな金額で○○ちゃんを救う物語に参加し、強い感動を得ることができる。
これは極めてコスパのいいコンテンツと言える。

一方で、アフリカの子供たちのコンテンツ性は薄い。
まず複数人なので物語が作りづらい。
「毎日300人が命を奪われています」と言われても、数値で表されると物語として楽しめない。
また、環境が違いすぎることもマイナスだ。
この手の救援地域はだいたいがインフラも満足にない「未開の地」だ。
日本とは世界が違う。
いわば異世界ファンタジーのように思えてしまい、どうにも物語に入り込みづらい。
もちろんそこに普遍的な物語を持ち込むこともできるので、ものはやりようだと思うが。
たとえば□□ちゃんを前面に出して、□□ちゃんとその友達たちを救うとすれば、心臓病の○○ちゃんと同じ効果を出せるのではないだろうか。



以下蛇足。
命をコンテンツ扱いするのは非道だ、とあなたは言うかもしれない。
ならばコンテンツ性がなく、より多くの人が救えるアフリカの子供たちに寄付すればいい。
そのほうが効率的だ。
もちろん効率性でもコンテンツ性でもない他の基準があるならそれでいい。
ただ、命の価値をどう決めるか、そのスタンスを決めていないのだとしたら、なるべく早く決めることをお勧めする。


累進課税と努力と運

累進課税は稼いでいる人ほど税金を取られる仕組みだ。
当然のことながら稼いでいる人からの評判は悪い。
「努力ペナルティ」といえば確かにそうだろう。
努力するほど減税になる「努力ボーナス」のほうが妥当だ。
しかし実はその努力というのが厄介なのだ。

稼いでいる人は、「努力は誰にでもできる」「努力は報われる」ことを暗黙の了解としている。
ところが、努力は誰しもができるわけではないし、努力は必ずしも報われない。

努力するためには環境が整っていないといけない。
親がいる、資産がある、衣食住がそろっている、学校に行ける、健康である、コミュニケーションが取れる・・・。
当たり前のものを持っていない人は大勢いる。
環境が悪くて努力ができない人は確実に存在する。
(しないだけの人もいるが)
良い環境を手に入れられるかは運の要素が大きい。

努力は報われるときもあれば、報われないときもある。
そしてたいていは報われない。
本人の努力はもちろん重要だ。
あれこれ考えて実行していくことは成功の一つの条件であることは正しい。
しかし、それと同じくらい運が影響する。
たまたま目論見が当たった、たまたまライバルが出てこなかった、たまたま計画が思いついた・・・。
思考や肉体のリソースを使って計画を進めることはできる。
それを努力と呼ぶ。
だけど計画内または計画外のすべての要素をコントロールすることは絶対にできない。
運に左右されるタイミングは必ず訪れる。
どれだけ死力を尽くそうとも失敗するときは失敗する。
それはどんなエリートでもどんな天才でも変わらない。
今日の勝者は明日の敗者かもしれない。
稼いだ大金は確かに努力の結晶だが、同時に強運の産物でもある。
自分の力を蓄え、自分の力を発揮できたことそれ自体が既に強運の証なのだ。
(費やしたリソースまで運で片づけられてはたまったものではないだろうが)

偶然だらけの複雑系世界で、少しでもその偏りを平らに均したい。
平等の精神などと高尚なことを言うつもりはないが、運否天賦の博打人生は勝者と敗者を明確に分けてしまう。
俺は敗者になりたくない。
かといって勝者グループで繁栄を謳歌したいわけでもない。
成功したり失敗したりしながらそれでも誰もがまともに生きていける世界が望ましい。
失敗したときの、そして挑戦すらできなくなったときのリスクヘッジとして、強運の努力家には相応の「努力ペナルティ」を受けてはもらえないだろうか。


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