白紙ソート

2014年を振り返って

もういくつ寝るとお正月、ですね。
今年もいろいろありましたが、仕事を辞めたことは大きな出来事ですね。
早すぎるとも思いましたが、半年ぐらい考えた末に決めたことなので後悔はありません。
これが若さゆえの過ちになるか先見の明があったとなるか・・・。
これからの頑張り次第ですね。


そういえばこのブログを始めて1年が経ちました。
週1のペースを守ることができて良かったです。
ネタが思いつかなくてテキトーなこと書いたりもしましたが・・・。
とはいえ、あることについていろいろ思考すること、考えをまとめる作業は楽しさもあるので、来年以降もこのペースで投稿していきたいと思います。


新年の抱負も振り返ってみましょうか。
「小説を短編5本、中編3本、長編1本書く」
→短編2本だけで終わりました。見通しが甘すぎですね・・・。
今は中編を書いています。今年中にプロットを完成させたかったです。

「趣味の出費を年30万以下に抑える」
→35万でした。今は月2万までに絞っていますが、給料をもらっていた時に使いまくった分が響きました。

「定時帰宅」
→無理。

「ブログを週に1回は更新する」
→これだけはできました。


だらだらと書きなぐってしまいましたが、これで2014年の締めといたします。
では、よいお年を。

なぜ信じられるのか

以前から宗教について疑問だったことがあります。
神というのがあって、そのお告げを聞いた人が教えを説いたというのが大体の宗教の興りだと思いますが、どうしても理解できないことは、その教えをなぜ絶対視し信じ切ることができるのかということです。
結局のところ、「神の教え」というものは最初にお告げを聞いたとされる人がそう言っただけであって、本当に神という存在があって、その人が教祖に教えたかはわかりません。
神の存在を論理的に証明しようという試みはされていますが、どれも矛盾ある主張です。
仮に神が居て、教祖に教えたとしても、教祖がそれを神の意図する通りに解釈したかはわかりません。
その人の解釈が入った時点で教祖の価値観になってしまいます。
イスラム過激派の曲解がいい例です。
他人の価値観が絶対的に正しいと言えるわけがありませんから、それを絶対視し、信じ切るというのは私からすると非常に不思議です。

信じるとすれば、それは正当性があるから信じるのではなく、それを信じ込み、行動の根拠とすることによって自分を納得させたいだけで、神や宗教や教えとはそのための言い訳でしかないのかもしれません。
理不尽な出来事があっても神の試練だと納得したり、教えの名のもとに罪なき人々を虐殺したりなど。
そう考えると「常識」をよりどころとして日々の生活をしている私たちと同じなのかなと思います。
車は歩道をウィリー走行しないし、通りすがりの人があいさつ代わりに一発殴りはしません。
その常識を疑えば、おちおち外を歩くこともできません。
そう信じ込むことで外出した時に余計な気を遣わなくて済みます。
様々な不都合を納得するための方便と考えれば、神や宗教は常識と同質なのかもしれません。

なぜ神や教義を疑わないのかという問いは、なぜ常識を疑わないのかという問いに置き換えると納得できるような気がします。
あるかないかではなく、あると信じなければ困るから便宜上あることにしているだけなのではないかと思います。

是非を問うと言われても

政権の是非を問うという位置づけぐらいしかできず、争点の見えづらい選挙と言われる今回の選挙。
さて、誰に票を投じるか悩みどころです。
ただ、是非を問うと言われても困ってしまいます。

野党を中心に安倍自民の暴走ストップとかお墨付きを与えてはいけないとか言われていますが、危ないと言っている人たちの根拠は結局のところ、主観と常識と思い込みと願望であって、100%確実なわけではありません。
もちろん「この道しかない」が正しいという根拠もありません。
例えば、雇用が増えたといっても非正規ばかり増えているし、そもそも雇用全体が増えた原因がアベノミクスによるものであるとは証明できません。

また、「この道」が何を意味するかも推し量れません。
例えば、秘密保護法や集団的自衛権に関しても、アメリカの上意下達によって戦争のできる国にしようとしているのか、隣国の脅威(らしきもの)から日本国民を守りたいと切望しているためなのか、本当の意図は分かりません。
全ては総理の胸の内であり、人の心は覗けない以上、是非の判断をすることはできません。
これは集団的自衛権に限らず、そもそも種々の政策に本当に国民のための正当性があるのか、国民にとって不都合な真実を隠した見せかけの正当性なのか分かりません。

さらに困ったことに、各政策が後から振り返ったときに結果的に正解だったと言えるのかを現時点で見通すことはできません。
過去から学ぼうにも過去の選挙と今年の選挙は条件が全く違うから比較のしようがありません。
結局、選んだ結果が将来にわたって良い結果をもたらすかは誰にも予測できません。

政権の是非を問うとテーマを一方的に設定されたわけですが、先は誰にも予測できない以上、是非の問いようがありません。
結局、自分が最も望むことを実行してくれそうな候補者と政党を吟味し、自分の望みをかなえてくれることを祈って票を投じるしかないわけです。
そして、選挙後の政策が受け入れがたいものだったら、次の選挙でそれを修正してくれるところに投票する。
自分が満足できる政治を実現させるにはその繰り返ししかないのでしょう。
そしてそれが民意を反映するということであり、選挙を実行する本来の意味ではないかなぁと思います。

歌声の音程調整を知った時のショックについて

以前、秋元康氏が音痴な人の音程を機械で調節していると言っていたのを聞いてショックをうけました。
その後は曲を聴いただけで軽く嫌悪感がしてしまいます。
また、他の曲を聴いてもこれは音程調整されているのではと気になってしまいます。
なぜそう思ったのかを考えました。

その原因は作品への評価と作者への評価を混同しているからです。
歌に関して言えば、良いと思った曲で歌手の歌唱能力を評価した場合、あるいは憧れた場合、その歌声に音程加工という「優良誤認」が行われていたと知った時、裏切られたという気持ちになります。
また、その作品(またはその経緯)が良ければ良いほど作者に対しての尊敬の念が強くなり、自分の理想像を反映してしまいます。
そして、その人が自分にとって許しがたい行為(例えば歌唱能力のごまかしや代作)を行ったとき、やはり裏切られた気持ちになり、嫌悪します。
つまり、その作者が「穢れた」存在になり、坊主憎けりゃの精神で曲自体も嫌いになるわけです。

しかし、だからといってその作品自体が「穢れた」ということにはなりません。
能力という観点から見ると、音程加工処理を施した歌声はその歌を歌った歌手の本来の声=能力ではありませんから(少なくとも一部は)「偽物の歌声」です。
(声をどう定義するかは人によって意見が分かれるでしょうが・・・)
しかし作品の観点から見ると、加工があろうがなかろうが出来上がったものが「真実」であり、制作過程は作品の評価それ自体には何の関係もありません。
作者がどんな人間でどんな経緯でどんな手法で作品を生み出したかは作品の評価基準にならないのです。

作品への評価と作者への評価をわけて考えることが作品の正確な評価に必要だと思います。
それが佐村河内騒動をもう一度繰り返さないことにもつながるでしょう。

FC2Ad