白紙ソート

勉強の意味って?

そろそろ大学受験も終わりに差し掛かるころですね。
そういえば、大学生のときに、受験を控えた後輩に
「なんで勉強しなきゃいけないのか」
と問われたとき、大学で勉強するためだと答えたことを思い出しました。
間違ってはいないのですが、勉強嫌いでとりあえず進学したい人には納得できない答えだったなぁと思います。

実際、高校までの勉強は読み書き算数以外、ほぼ役に立ちません。
(専攻によっては必要になってきますが)
だとすれば何のために勉強するのでしょうか。
それは勉強するという行為を学習すること、
つまり、知識を得るための方法を学ぶこと、
そしてその知識を活用して問題を解く練習が目的ではないでしょうか。

学校を出た後も、生きていく上で覚えなければいけない知識はあります。
たとえば税金の知識、法律の知識、病気の知識、政治の知識などなど。
そういう知識を得るために勉強は必須です。
あるいは趣味でもそうでしょう。
艦こゲフンゲフンゲームでなかなかクリアできないときにwikiを見てあれこれ試行錯誤することも勉強です。

ただ、これを今勉強にうんざりしている学生に言ってもわからない気がします。
多くの学生は学校が世界のすべてですから、
遠い将来のことを考える余裕はないでしょう。
この先に必要となるといわれても想像できません。
少なくとも当時の私には無理ですね。
というか、勉強が嫌だから何のためにやっているか聞いているのに、
その答えが勉強のためってもうわけわかんないですね。

まあ私も受験はあまり乗り気ではなかったのですが、
世界史の先生が進路ガイダンスで
「一生に一度くらい全力で勉強する時があってもいい」
というようなことを言っていて、私はそれで納得しました。
結局、そんな風に先人の知恵式の説得に落ち着くしかないのでしょう。
とすると、たかだか数年年が離れただけの私にはあれぐらいしか言えなかったのかもしれませんね。

ら抜き校正はヒトのコンピュータ化へと

Wordを使っていると校正チェックしてくれる。
ら抜き言葉も注意される。
注意がうざいので直す。
機械が言語矯正しているわけだ。
設定者は人間だから別にいいか?
けど、修正候補を意図的に変えたら静かな言語統制になったりしそう。
例えば「処分する」という言葉がつかえなくなり、
「殺す」という言葉しか使えなくなったら殺伐としそう。
逆に過激な言葉を入力できないようにするとおとなしくなるかも。
言霊というくらい言葉の力は強いのであながちウソともいえない?

これが発展し、グーグルの入力予測のように
文章を書くときに文章の傾向から残りを予測して候補を表示するようになったらどうだろう。
オリジナリティはないが用は足りる予測を表示すると、
人間は易きに流れるのでやがて文面を考えなくなる。
思考停止状態になる。
それが癖になる。

それを行動一般にも拡張すると、
やがてコンピュータの指示通りにしか動かないようになる。
会話だったら、相手の脳活動を判定し、「適切な」言葉が表示されて、
それを喋るだけになるとか。
そして、コンピュータからの命令を受け取り、
行動するだけのコンピュータのような人間ができあがる。
人間のコンピュータ化だ。
まあ指示待ち人間とかアイヒマンとかもう似たようなのはいるけど。

Wordの自動校正はそんな恐るべき未来の始まりなのかもしれない。



以上が設計書を作成中に気が散った結果である。
真に受けてはいけない。

【読書感想文】ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者

映画「ハンナ・アーレント」の評論を見て以来、彼女に興味を持っていました。
アイヒマン裁判でユダヤ人同胞虐殺の実行者であるアイヒマンを擁護するような論をなぜ展開したのか、それを臆することなく発表したその価値観を作り上げた経緯に興味があったのです。
本書ではその経緯と彼女の信念について彼女の人生とともに紹介しています。

アーレントを作り上げた大元は幼少期です。
母親から「先入観を持たず、社会的な諸関係の外に立」つことを学んだことがその後の彼女の価値観を作り上げたといっていいでしょう。
母親のこの考え方はなかなかできることではなく、だからこそアーレントのような人は少ないのだろうと思えます。
その後病気などで学校を休みがちになった彼女は家の蔵書を読み漁ります。
そこで理解することへの欲求が生まれ、哲学への道を志します。
哲学を学ぶ中でハイデガーやヤスパースなど彼女の師とも呼べる人々との出会いが彼女の価値観を確固たるものにしていったようです。

映画にもなったアイヒマン裁判は戦時中にナチスが行ったユダヤ人の行政的大量虐殺の実行者アイヒマンについての裁判です。
この殺戮についてアーレントは、一部のユダヤ人指導者が収容の手伝いに加担したこと、収容者自身が大量殺戮システムの構築に一役買ったこと、アイヒマンは巨悪ではなく、ただの指示待ち人間だったことなどを論文に書きました。
彼女は事実を言っただけなのですが、それを聞いたユダヤ人の人々は怒り狂いました。
誰だってこんな惨劇は狂人による凶行だと片付けたいのに、アイヒマンが我々と大して変わらない人間で、おまけに虐殺された人々も共犯だったなんて言われたらそりゃあブチギレたくもなるよなあと同情したくなります。
まあ、感情論で真実を曇らせてはいけないという彼女の意見には賛成ですが。
結果として、アーレントはほとんどの友人から絶縁され、数年にわたって激しいバッシングに会いました。
この論文の発表時期は裁判からすぐ後であり、傷の癒えぬところに発表したことがよくなかったのだと思います。
そのあたりは師のヤスパースにも指摘されています。
せめてもう20年ぐらいすれば人々は事実をもう少し冷静に受け止められたのかもしれません。
そうすれば彼女は友人から絶縁される悲しみを経験せずにすんだのかなと栓無きことを思ってしまいます。

この論文を発表した際、友人から「ユダヤ人への愛がないのか」と問い詰められたアーレントの回答は一見奇妙で興味深いものでした。
彼女は「自分が愛したのは友人だけであって、何らかの集団を愛したことはない」と答え、その一方で「ユダヤ人であること」は「生の所与の一つ」とし、「その事実を変えようとしたことはなかった」と断言します。
最初読んだときはよくわかりませんでした。
これは便宜上ユダヤ人としての立場はとるし、ユダヤ人として生まれたという事実は認めるが、しかしユダヤ人というカテゴリの集団に対しては特定の見方をせず、多様な視点を持つことだと私は受け取りました。
また、政治的な場面で集団的な帰属と個人のアイデンティティの帰属を同一にしてはならないというのが信条のようで、それは政治的な真理を曇らせる恐れがあるためだと述べています。
つまり、個人的価値観を集団の価値観と同一にせよという全体主義的な考え、言い換えれば「空気読め」状態は危険であるということでしょうか。
それは思考停止させるという点で本質的にアイヒマンが犯した罪の原因と同じものですから。

多様な視点こそが必要であり、どれだけ良い意見だろうと、単一の視点でしか物を見ないことは非人間的なことだとアーレントは言い切っています。
これを読んで前の勤め先で企業哲学を押し付けられたときに、それを心の中で批判し、流されないように自分の価値観を何度も思考したことが正しかったと感じさせてくれました。
とかく全体主義的な価値観が蔓延するこの世の中。
流されることなく思考し、事実を理解し続けるアーレントの姿勢はぜひ見習わなければと思います。

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さあ!夢を持とう!(威圧)

夢を持ち、情熱を傾けられるものを見つけるべきだという風潮があります。
確かに打ち込めるものがあれば自分の人生に意味を持たせることができ、自己肯定感が増します。
それは生きがいと呼ぶこともあるでしょう。
しかし、それが必須であるかのような風潮には疑問を覚えます。

実のところ、夢も目標もなくても、それなりに金があって衣食住が整っていれば人間は生きられますし、人生をどう生きるかは定型があるわけではありません。
そもそも人生の意味というものは一つの定義があるわけではなく、自分なりに意味づけることができるだけです。
世の中の人々は、消費を促すため、自分の人生に価値を持たせるため、叶えられなかった夢を押し付けるため、相手の身を案じるためなど様々な理由で「さあ!夢を持とう!」と四方八方から暗に陽に夢を持たないとよくない人生になってしまうと押し寄せてきます。
しかし、こんな押し付けを素直に受け入れる必要はありません。
夢を持つなとはもちろん言いません。
すでに持っている人は頑張って夢を叶えて下さい。
ただ、今それを持っていないことで苦しんでいる人に対しては夢や目標を持たねばならないと強迫観念に駆られるのは非常にバカバカしいことだと言いたいのです。
夢を持って生きている人の人生と無目的に生きている人の人生に優劣も善悪もありません。
ただ何となく生きているだけの人間がそのまま何事もなくただ死んでいったとしても、常に目的を持ち世間一般でいう「立派な仕事」をいくつも成し遂げた人生だとしても、自分や70億の他人それぞれがその人生を勝手に意味づけるだけです。
その人の人生の価値が値札シールを貼られるように自動的に決まるわけではありません。

無理して夢をもたなくても、平穏に暮らせればそれで御の字だと私は思うのですが。

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