白紙ソート

差別者差別という論法の無意味さ



この発言を見たとき、唸ってしまった。
文体的には冗談のつもりだろうし、そうでなくても「何言ってんだコイツ」なのだが、何が悪いのかとっさに思い浮かばなかったのだ。

というわけで何が悪いのかを2点考えてみた。
①優先度が低すぎる
人種差別を行うAがいる。
Aを差別者と指摘するBがいる。
それを見たCは、Bが差別者を差別していると言ったとしよう。
さて、ここで一番悪いのはAとBのどちらだろうか。
もちろんAである。
あえて理由を説明するならば、Bを排除してもAの人種差別は残るが、Aを排除すればBも自動的に消える。
明らかにAを排除するほうが合理的である。
優先すべきなのは人種差別の解消であって、人種差別をする人を差別(笑)する人をバッシングすることではない。
Cが馬鹿げているのは言うまでもないだろう。


②不毛な言葉遊び
冒頭のは「差別者を差別している人」をバカにしている。
しかしこの発言をした時点で彼は「差別者を差別している人」を差別していることになる。
つまり、彼自身が差別者差別を行っているのだ。
これは矛盾であるから、論としては壊れている。
また、この論法は「「差別者を差別している人」を差別している人」を差別しているという反論が成り立つ。
もうお分かりだろうが、これは無限ループである。

遊戯王20巻より
ふつう、これを言葉遊びといい、不毛な議論にしかならないことが分かる。


とまあ、以上を自分なりに考えてはみたが、そもそも差別の定義とはどうなっているのだろう。

「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」を見てみる。
人種差別の定義は以下のとおりである。
「 第1条1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。 」
短くすると、
「「人種差別」とは、人種、基づくあらゆる区別であって、あらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権を認識することを妨げ又は害する目的を有するものをいう。 」
次に第1条4を見てみる。
「人権及び基本的自由の平等な享有又は行使を確保するため、保護を必要としている特定の人種若しくは種族の集団又は個人の適切な進歩を確保することのみを目的として、必要に応じてとられる特別措置は、人種差別とみなさない。ただし、この特別措置は、その結果として、異なる人種の集団に対して別個の権利を維持することとなってはならず、また、その目的が達成された後は継続してはならない。」
短くすると、
「人権の平等な享有を確保するため、保護を必要としている特定の人種の適切な進歩を確保することのみを目的として、必要に応じてとられる特別措置は、人種差別とみなさない。」

つまり、差別者を排除するための合理的な行動は人種差別ではないと定められている。
これは差別一般に対しても同じ論理が適用できるはずなので、冒頭の差別者差別批判は差別に当たらない。
定義から見ても的外れなことを言っているのだ。

劇場版遊戯王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS 感想(主にデュエル演出についての考察)

ネタバレありです。

上映が終わった後、後ろの人が「デュエルが違った」みたいなことを言っていました。
確かに特殊ルールだったり、説明を端折ったりするところが多かったです。
今のARC-Vだと効果を全部説明してますし。

しかしまあ、これは仕方ありません。
劇場版の問題点は何といっても時間の短さ。
だけど遊戯王だからデュエルシーンはできるだけ多くしたい。
これを解決するためにいろいろな手法が取られています。
例えば次元領域デュエルの「生贄無し召喚」「破壊時ステータス分のダメージ」です。
破壊時のダメージは展開を加速するために必要です。
ライフを8000じゃなく4000にすればいいとも思いますが、それだと高攻撃力モンスターの攻撃を何度も受けるという派手さが出せません。
攻撃力30004000オーバーのモンスターを何体も出そうとするとどうしてもライフが足りないのでしょう。
生贄無し召喚ですが、上級モンスターを出すためには何らかの手段で生贄を確保しなければなりません。
普通に召喚するにしろカード効果で召喚するにしろその分のシーンが必要になります。
時間にすれば1分ぐらいでしょうが、積み重なると無視できません。
同様の理由でカード効果の説明もテレビのように細かくは説明できません。
カード効果が分かりづらくなるのは覚悟の上でしょう。
まあ原作も抽象的な表現が多かったので雰囲気的には合っているかもしれません。
また、「カードを伏せて」のセリフすらオミットしたことからもギチギチの構成だったことが伺えます。
その甲斐あって海馬VSアテムVR、海馬VS藍神、遊戯VS藍神、遊戯VS海馬、暗黒神と化した藍神VS遊戯&海馬と高スペックモンスターの乱打戦を5戦も行うことができました。
次々強力なモンスターが出てくる展開はすごく燃えるので個人的には良かったと思います。

気になったのは最終戦のラスト。
最後にアテムが召喚したのは守護神官マハードですね。
4週目の入場者特典です。
闇属性モンスターとの戦闘時攻撃力が倍になる効果があるので、それで倒したのでしょう。
この説明なく倒したのでアテムがファラオパワーでチートしたように思っちゃいました。
ただ、あの神々しい感動の降臨場面で効果の説明をしてもそれはそれで興ざめなので難しいところですね。
あとは喋らない設定だった都合上、効果の説明ができなかったのかもしれません。

あとは次元領域デュエルの「モンスターのステータスが精神力依存」というルールなんですが、あれって意味あったんでしょうかね?
海馬と遊戯のメンタルが強かったので無意味。
方界モンスターは自身の効果で攻撃力アップするのでやはり無意味。
クリムゾンノヴァとトリニティは暗黒次元モードだったからか無意味。
読み切りの時は意味あったんですが映画本編には出てこない設定でしたし。
暗黒神と化した藍神戦のときに耐えられるだけの精神力を持っているという前フリだったのでしょうか。
あれは原作の「闇のゲーム」みたいな状態だったので、ペガサス戦で倒れた遊戯や闇のゲーム未経験の海馬が耐えられている理由をつけたかったのかもしれません。
・・・社長は元々物ともしなさそうですが。


最後にもう一つ。
死者蘇生封じが原作ラストのアテムへのメッセージ再現でうおおってなりました!

テーマ:アニメ - ジャンル:アニメ・コミック

殺された人の人権と死刑賛成に関係はあるか

人権団体のアムネスティは「被害者の人権はどうなるのか?」の項で殺された人の人権について以下のように述べる。
「とても残念なことですが、被害者ご自身の「生きる権利」、遺族の方の家族とともに再び一緒に過ごす権利は、たとえ死刑によって加害者を殺したとしても、戻ってはきません。」
まあそう言われればそうなのだが、しかしどうにも違和感が拭いがたい。

生きる権利は死の直前まで存在していたはずだ。
致命傷を与えられた瞬間に生きる権利は侵害されていたはずだ。
殺される直前までに確かに存在していた人権は救済されないのか。
減った人権は死でリセットされてしまうのか。
それは理不尽じゃないのか。
人権は生とセットだから死ねば人権が消滅するのは道理だ。
この理屈を受け入れるならば、確かに死刑に意味はない。
だが前の記事で述べた通り、日本人は基本的人権を知りながら死刑に賛成する。
それは日本人は死ねば人権が消滅するとは思っていないからではないか。
「死者に鞭打つマネはするな」という言葉がある。
死者の尊厳を尊重するのは日本人に根付いているのだろう。
日本では死者に人権があるのではないだろうか。
幽霊や死後の世界という概念があれば、肉体的な死が生の消滅を意味しないのかもしれない。
だとすれば人権は死亡でリセットされない。
殺された人の人権は残存し続ける。
死者の人権を魂や怨念や未練と言い換えてもいいかもしれない。
死んだ人は帰ってこないが、魂は残り続けるという概念。
これが日本特有ではないが、日本の儀式・風習・物語には魂の概念を持つものが多いのは事実だろう。
浮かばれない魂、つまり怨念未練を持った魂は鎮めなければならない。
たとえば、菅原道真のように。
死者をそれらから解放してやらねばならない。
傷ついたまま残存した人権を回復しなければならない。
そのためにはその罪人の魂を生贄に捧げねばならない。
だから、死刑が許される。
死者への供物としての死刑。
鎮魂のための人柱としての死刑。

ぶっ飛びすぎか。
どうにも魂だの何だのが入ってくると胡散臭くなる。
だが罪人の魂を生贄に捧げなければならないという概念は、罪人にもはや人権はないという了解を生み出し、したがって死刑は人権侵害ではないという理屈を成立させるのかもしれない。
そう、罪人は人間ではないのだ。
これは危険な考え方ではある。
罪人の定義によっては誰でも殺せてしまうからだ。
「異教徒は人間ではない」と本質的には同じだ。
とはいっても現代日本においては「罪人」の定義は残虐犯や大量殺人犯に事実上限られている。
だからこそ死刑が正当だと思えるのだろう。

とはいえ魂的な概念もどこの国・宗教でもよくあるし、諸外国にも死者を祭る文化はある(プロテスタント諸国における死者の日など)。
それらの国では死刑は廃止されているから死者の尊厳とか無念とかが関係あるかはわからない。

前回と今回で因果応報や鎮魂を理由に挙げてみた。
なんだか宗教臭くてイヤなのだが、先進国でも発展途上国でもバラつきがある以上、死刑賛成には文化や精神的な理由があるとしか思えないのだ。
また別のことが思いついたら書くと思う。

動物愛護系のもにょり

ペットショップの生体販売をやめろというChange.orgのやつがきたんです。
あそこは動物愛護系の呼びかけがちょい多めな気がします。
で、私この手のを見るたびにモヤモヤするわけですよ。
それは結局、動物のカテゴリの中での差別だからなんですけど。
愛玩動物は助けるべきだという主張は愛玩動物以外はどうでもいいという態度を感じてしまいましてね。
もちろん、動物は人間様の自由にして良いんだよ!みたいなのよりはずっとマシです。
ネコを燃やして見世物にしていた中世ヨーロッパから考えれば人類の進歩を感じさせますね。

だいたい最初から完璧にせよってのも酷な話。
合衆国憲法は最初は黒人奴隷を認めていたけれどのちに撤廃したように、段階を踏んでいけばいいだけです。
自分が損しなきゃ動物の扱いについては特に何の意見もないですし。
ただ、動物の扱いについてアクションを行う人々に対しては微苦笑交じりの白眼視をしたくなっちゃいますね。
一言でいえば、「牛食っといてそれ言うんだ・・・」ですかね。
より具体的に言えば、「蜂を駆除して刺身を食べて焼き肉を頬張ってミドリムシをすり潰して猫に萌えてイルカを憐れむ人がそれを言うんだ・・・」というわけです。
いや、いいんですよ別に?
その矛盾は分かっているけど、「それはそれこれはこれ」っていうのなら。
自分のすべての言動が互いに全く矛盾しない人間なんていませんしね。
麻薬対策のポスターに起用されたタレントが麻薬やってるような世の中ですから。
猫はかわいいから大切にしなきゃ。ステーキはおいしいから食べないなんてありえない。
誰だってそーする。俺だってそーする。
(猫やステーキは適宜読み替えてください)

とはいえこの手の話を見かけるたびに、可笑しいような悲しいような形容しがたい感情に見舞われるのです。
なんか文句言ってやりたくなるんです。
でもあんまり強く言えた義理じゃないからこんなセリフしか絞り出せない。

「お前、それでいいのか?」

人権思想の構造的欠陥と矛盾について

人権思想は全人類が共有すべき思想の中で、現時点で最善の思想だと思われる。
だが、この思想には構造的な欠陥がある。
守られるべき人権、それを破壊する人間の人権を剥奪できないことだ。
端的に言えば、人殺しを殺せない。
だから死刑に反対する。
しかし集団誘拐や拷問、大量殺害を行う人間は殺していいようだ。
すなわちボコ・ハラムやISなどのテログループは「死刑」にできることになる。
それも裁判なしの極刑だ。

これは全くの矛盾だ。
死刑に反対しながらIS抹殺を(消極的にせよ)容認するのは明らかにダブルスタンダードである。
死刑囚とテロ集団では犯罪規模が違うとはいえ、死刑反対の理由が人殺しを殺せないからならば――加害者の人権も守られるべきだからならば――人殺しの集団であるテロ集団もまた殺せないはずだ。
「殺人犯にだって人権があるんですよ!」というわけだ。
そこのところの理屈をどうつけるつもりなのだろうか。
まさか中世キリスト教のように「異教徒は人間じゃないんでー」みたいなノリではあるまい。

もちろん理論と運用は違うから、柔軟な運用の結果、例外的に理論を一部無視することに問題はない。
思想にこだわるあまり本末転倒になってはいけない。
イデオロギーはしょせん道具に過ぎない。
第一、ISが各地で人権侵害しているのをほっとくのも人権思想にそぐわない。
「戦争は人間の幸福を犠牲にするものであるゆえに本質的に不道徳であり、それを正当化できるのは、さらに大きな人間の幸福が犠牲になるのを確実に妨げるまれな場合だけだ、という確信を組み込んだ規範」(暴力の人類史 上p513)が根付いてきている世界ならばIS殺害は確実に許される。
殺戮者の命を助けるのと殺戮者を抹殺するのとどっちがいい?
そう問われて前者を選ぶ人はアーミッシュでもない限りいないだろう。

ただ、理論として完成させるならば、矛盾は解決しなければならない。
もっとも、「だから人権思想はポンコツだ」と言いたいのではない。
こんなものはバグを見つけて指摘して遊んでいるだけに過ぎない。
ゲオルク・カントールは合衆国憲法の論理的欠陥を指摘したが、それは単に理論家の性でやっただけで合衆国憲法を否定したかったわけではない。(「無限」に魅入られた天才数学者たち 第20章より)
理系の人間はなんでもかんでも分析したがるもんなんです。

では、矛盾を解決するにはどうすればいいだろうか。
理論の矛盾を解消するには、定義を変えるか例外を追加するかしかない。
言い換えれば、人権思想において人権抹殺=殺害・拷問などが許される場合は存在するか?
その場合、どのように定義を修正すべきだろうか?
この理論家ごっこの続きはいずれ。

安定を捨ててやりがいをっていうアレはすごいモヤモヤする

3月22日のガイアの夜明けが有名企業からやりがいを求めて独立とかベンチャーとかソーシャルビジネスとかをやった人の話だった。


やりがい厨死すべしというのは置いておいて、この人たちって結局才覚も能力もあるから仮に失敗したとしてもどっかの会社に就職できるんで、ギリギリ感がなくて冷める。
別にあの人らは遊びでやってるわけじゃないし、安全マージンを取って生きることは全く正しい。
格好つけで何もしない意識高い系でもないし、冷笑したりバカにするもんではないとはわかっている。
劣悪な環境に居る人とあの人らを比べてどうのこうのってのも筋違いな批判だ。

でもなんか現実離れしているというかホワイトカラーの高等遊戯みたいな感じがして・・・。
何も間違っていないけど、なんかもにょるというか、モヤっとするというか、ムム顔になるというか、舞踏会が開かれたお城の窓から漏れてくる明かりや歓声を外で聞いている庶民の気分というか、「ハッ」と冷笑したくなるというか「ケッ」と唾を吐き捨てたくなるというか、「富めるものはますます富み」を見せつけられているというか、持っているのにまだ欲しがるのかと呆れるというか。
プロレタリアートがブルジョワを見るのってこういう気分なんだろうなぁと。
SEALDsが各方面からボコボコにされてるのとか昭和の学生運動が冷笑されてたのと同じ感じなんだろうか。

こういう気分ってなんていうのかね。
やっぱり羨望や嫉妬になるのかしら。
むしろ呆れとか馬鹿馬鹿しさとかのほうが強いだろうか。
金銭的に不安定な現状だから安定を捨てる人間にやるせなさを感じるのかもしれない。
あるいは、やりがいの名の元にグレーな労働環境を放置していた(少なくとも自分はそう思った)前の勤め先への怨みがプレイバックされるのかもしれない。
いずれにせよくっだらねーなぁと思う。
他者の境遇を自分と比較して憂うってのはもう本当にくだらない。
劣等感をバネにというのもあるけど、そのやり方ってキリがないし。
だって上に上がいるから。
やっぱり自己満足の基準というのは決めておくべきだなぁと思った。


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