白紙ソート

偽りの自分なんているのか?

高校時代は仮面をかぶっていた。
なるべく素の自分を出さないようにし、あまり喋らないようにしていた。
そのことで友人たちに対し罪悪感のようなものを抱いている。
しかし、素の自分というのはいったいどういうものなのか。
その境界はどこなのか。

全てをさらけ出すとは嫌なこともすべて含み、大体それはロクな結果にならない。
「素の自分」であれば、友人により良い結果をもたらしたというのか。

偽りの自分なんているのか。

本音を隠す、欠点を隠す。
そういうことは誰でもやることで、それはむしろよりよい関係を築くために、あるいは関係を壊さないためにやることだ。
確かに素の自分を出してつきあいたいという望みはあった。
でもそれは思い込みではなかったか。

もし素の自分でいった場合、関係が悪化する可能性もあった。
というよりもそれを危惧したからこそ家での自分とは違うキャラにしていた。
素の自分を家での自分と定義しているが、家族と友人とで付き合い方を変えることは特におかしなことではないだろう。
家族に対してのある種の甘えを友人にはしてはいけないこともある。
また、家族には言えないが友人には言えることや、家族に言えても友人には言えないこともある。

そもそも洗脳でもされていない限り本当の自分は全て行動の中にあらわれる。
だとすれば偽っていると思っていてもそれもまた自分である。
偽りといって否定するようなことをしたり、二重人格だと言って分離したりすることが果たして正しいのだろうか。
それもまた自分の一側面でしかないのだから、受け入れても構わないものだろう。

「仮面をかぶった」としても、それは結局それが望ましいと思っていたから変えなかったのだ。
家の自分を出したいが、出すことは望ましくないと思っていたわけだ。
ただ自分の中であまりにも露骨にキャラが変わっていたことに不安があったというのはある。
もっともそう思っているのは自分だけで実際はあまり変わらないのかもしれない。

渡辺志帆氏のツイートから推測するマスコミの習性

下記ツイートに非難が殺到した。
マスコミの論理と一般人の論理がかみ合っていなかったためと思われる。
このツイートからマスコミがどんな論理で動いているか推測してみる。
臆面もなく堂々とツイートしたことからこの記者は被害者のプライベートを探るのが正しいと思っている。
安易な一般化は危険だが、おそらくどのメディアのどの記者も同じ行動論理で動いているのだろう。
(この記者は朝日だが、読売も社説で同じことを言っている)
被害者の情報がなければ事件が伝わらないと思っている。
あるいはより深く衝撃を与えるための必要な素材だと思っている。
そしてそれが正しい記者のあり方だと信じている。
おそらく社内でそういう教育をされているのだろう。
それはずっと続いてきたメソッドなのだろう。

商売でやっている以上、読者の目を引く面白いニュースを作ることが至上命題だ。
(逆に言えば商売でもないNHKはそこを軽視してほしいなぁとは思う)
当然、報道の仕方もそれに適うようにならざるを得ない。
今回の事件は一言でいえば「障がい者施設で大量殺人が起きた」となる。
だがこれだけでは感情は動かされない。
そこには共感できる要素も物語性もないからだ。
被害者の人となりを知って初めてニュースに感動し面白さを感じられる。
そこから背後にある真の問題にも興味を持ってもらえるのだ。
というふうに記者は考えているように思える。
あるいはそうやってプライベートを暴くことを正当化している。

でもそれは邪道だと思う。
激情は目を曇らせる。
本当に問題を提起したいのなら、感情を揺さぶる伝え方はやめるべきだ。
今回のような被害者側に何の落ち度もない場合は特に。
問題を把握するために不必要な情報は極力排除しなければならない。
マスコミと視聴者は合わせ鏡だからマスコミだけが責めを負うのもアンフェアだが、100万単位の人間に冷静さを訴えるよりマスコミが変わるほうがコストが低いのでぜひそうしてほしい。


余談
あれだけ叩かれてもツイ消ししないのは称賛に値する。
(どのみちアーカイブとられてるんだけど)

書店文化淘汰論

書店文化が失われる云々というがどうでもいい。
本屋という店舗形態をとっているのは物理的に置かなければならなかったから。
いわば便宜上の問題であって書店文化なるもののための書店ではない。
本屋のスペース的にどうやったって話題に偏向された本しか手に取れないんだから、ほかにはない新たな本との出会いなんて期待できない。
というか新たな本探したいなら図書館いけ図書館。
本屋にも置いてもらえない本もあるだろうし。
第一、本屋で思わぬ出会いをするようなアンテナ感度の高い人は自分から本を探しに行く。

本屋だと並べてあるし手にとれるから新たな出会いがという意見がある。
だがネットだって買い物サイトなら検索駆使すれば、新刊も見つかるし、ある程度ジャンル分けもされている。
出版社別にも作者別にも見れる。
あらすじぐらいは見れるし、中身を見て判断したいなら図書館いけ図書館。
基本的に図書館で読んでから買うか決めるぞ俺は。
売り上げに響くから図書館に置く期間をもっと空けてほしいという要望があるが、買う側の金は有限なんだから厳選するのは当たり前だ。
中身を確かめるために借りるのであって、その確認が無理なら買わないのだから、いくら期間を空けようと買わんヤツは買わん。
逆に言えば、あらすじ買い・話題買いの人は図書館なんか行かないから期間空けても影響がない。
俺は吟味して買いたいからわざわざ図書館で借りてるんだ。
そして吟味したあと手元に置きたいと思うほど内容がよければ新刊で買うのだ。

ただ本を並べて売るだけならネットに勝てないのは当たり前。
淘汰されてもしょうがない。
書店擁護を訴える人々はおそらく、何十年も本屋に通って素敵な本を買って読んだ経験から本屋それ自体に愛着がある人なんだろう。
(だから俺は目的がなくても本屋に行く)
でなければ書店組合のまわしものだろう。
読書は確かに素敵な経験だが、本の販売場所なんて読者側からすればどうでもいいこと。
ポイント高額還元や1万円セットのような特殊なサービスでもない限り、ネット通販か電子書籍に流れるのは必定。
人は便利さに勝てない。
便利さを上回る価値を提示できなければ、書店文化はたやすく終焉を迎える。

基本無料系のマネタイズの難しさ

「いらないけど、いるもの」という矛盾した定義が基本無料系マネタイズに求められる。
必要なものを課金してしまえばそれは実質的な有料だ。
FREEを例に挙げるまでもなく、有料サービスはよほどの知名度がなければ客を呼べない。
冒頭の定義は正確には「基本不要だが条件によっては必要なもの」だ。
この「条件」が厄介なものとなる。
「条件」はサービスの利用に支障をきたすものであってはならない。
例:キャラゲーでキャラを課金し炎上したジョジョASB
「必要」も厄介である。
当たり前だが「顧客はやりたくない用事には手を出さない」。(イノベーションへの解3章)
欲しくもないものに課金はしない。

例1:ブクログ
仮想本棚を欲しがる人は少ない。
そんな用事はない。
少なくとも自分は読書リストとして使っている。
アマゾンアフィリエイトの権利もついてくるが、もう報酬額が引き下げられてうまみがない。
本リストを見て買う人もおそらくは少ない。
アフィの用事は片付けられない。

例2:pixiv
pixivは人気順検索やブクマ順検索に課金している。
しかしpixivユーザの用事は「良い絵を見たい」である。
良い絵と人気絵は基本的に相関している。
ゆえに人気順検索への課金はユーザの用事を片付ける邪魔をしている。
イラストSNSと喧伝しようとユーザは好きなように使うのであがいても無駄である。
だから理不尽と思われ課金されない。
最近は販売サイト路線で仲介料を取るモデルやイラスト講座路線にしているようだ。


成功例としてはニコニコ、はてなブログ、艦隊これくしょんが挙げられる。
ニコニコの月額課金は回線速度、タイムシフト視聴、マイリスト増加、投稿容量増加あたりがキモだ。
しかしこれらがなくても動画視聴という用事は片付けられる。
はてなブログの月額課金は広告なし、アドセンス権利、ブログ数増加、独自ドメインがキモである。
これらがなくてもブログ投稿するという用事は片付けられる。
艦これの課金はケッコンカッコカリ(強化)アイテム、収集数増加あたり。
しかしかなり長い時間プレイしなければ収集数増加は必要ないし、強化も別段必要ない。(私は1年で1万しか使ってなかった)
兵站&美少女ゲーを遊ぶという用事は片付けられる。

ニコニコ・艦これはヘビーユーザー狙い、はてなブログはアドセンス権利狙い。
それぞれ本来とは別の用事を片付けるものに課金させている。
ゆえにそれは理不尽でない。


とはいっても、こんなものは後付けの結果論でしかない。
ニコニコでは運営死ね本社爆破がスローガンだ。
はてなもアドセンスにうまみがなくなればどうなるかわからない。
艦これも収集数やケッコンカッコカリを理不尽と感じるユーザのほうが多かったかもしれない。
ブクログも仮想本棚という価値観が勃興すればうまくいくかもしれない。
pixivはよくわかんね。
そもそもどれも単一のビジネスモデルではない。
「偶然の科学」によれば複雑系世界における企業の成功は分析不可能である。
なぜ失敗したのか、なぜ成功したのかは考えるだけ無駄かもしれない。

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