白紙ソート

専門外の真偽を見分ける方法

専門外のことについて真偽を知るすべは当然その分野の知識を仕入れることだ。
しかしそう簡単には学べないから専門家の意見を聞くことになる。
問題はその専門家が本当に正しいことを言っているか分からないことだ。
専門家の中にはトンデモな意見を持っている人がいる。
それを判別するためには知識が必要だが、知識があるなら専門家に聞く必要はない。
堂々巡りだ。

専門知識なしで専門家の信用性を調べる方法は4つ。
①言動。過激だったり大げさだったり不自然な言い回しをしていないか
②過去の実績(良い実績があるか悪い実績がないか)
③信頼できる人が奨めているか
④同じ専門分野の別の専門家が同じことを言っているか
しかし①はまともそうな狂人が一定数いることや、口は悪いが腕は確かみたいな人もいるから確実でない。
②はそれなりに信頼できるが、いきなり変節したりするので確実ではない。
また、デマを飛ばされている場合や擁護されている場合もあるので調べるのが意外と難しい。
③は有名人が水素水を勧めたりする時点でお察し。特に専門外の人の場合は一般人でも学者でもあまり信用できない。
④が多分一番確度が高いが、数多く調べないとわからない。
学会の統一見解を調べるのが手っ取り早い。
ただ、統一見解が出てなかったり、学会が乱立していることもあるので、そこでまたチェックが必要になる。

なんだかんだいっても専門外の真偽を見抜くのは土台無理な話で、専門家に頼るほかない。
ただ、信頼できる専門家かどうかは性善説で判断するしかないのが実情だ。
だからこそトンデモなことを言う専門家は存在してもらっては困るのだ。
それでも上記のチェックすべてを通れば信頼できるとは思う。
そして併せて少しでも知識を仕入れるようにしたい。

コミティア118へ行ってきた

とりあえず会場中を全部見て回った。
下見のつもりだったんで1冊だけ買ってきた。
2時間半ぐらいうろついて足が疲れたのはもちろんだが、頭が痛くて気持ち悪くなったほうがつらい。
あれかな、歩きながら両側を同時に見ていたのがマズかったかな。
疲れたので以下雑多に書く。

当たり前だけどコミケよりはずっと空いていた。
それでもすれ違えなくなることはあったけど。
出版社へ持ち込みなんてやってたのが意外でした。
最近の恒例らしい。
あと海外コーナーとかも変わってて面白かった。
ワコムとかクリスタとかの展示コーナーとか印刷会社のコーナーとかも。
規模が小さい分企業も個人も同空間に配置できるんでしょうか。
あとエロ系は少なかったのが意外。
コミケが異常というべきか?
即売会は何種も行かないからわからん。
そのせいか子連れも多かった気がする。


今回はいつか同人誌売るときの下見という意味が大きい。
どうしたら手に取ってもらえるのかとか。
ちっちゃいイーゼルみたいなものに見本誌を立てかけるのはいいと思った。
個人的には平積みよりも手に取るハードルが低い。
即売会に出しておいて立ち読みしてほしくない人なんているわけないので、そんなにビビるのも間が抜けている気はするけど。
基本コミュ障というかコミュ断なので、あんまりやりとりしたくないんですよね。
即売会に来ておいて何言ってんだって話だけど。
そういう意味では30~40センチぐらいの鳥居を立ててたサークルは理想だった。
なにせ売り子の顔が見えないんだもん。
あと見本誌を開いて展示していると中身を改めやすくていい。
流しながら見て回る人にとってはわかりやすいかも。
カラーも大事と思う。やっぱ白黒は見栄えが・・・。


中で売ってるカタログにコミティア117のサークル販売データが載ってた。
参加サークルの3割だけど傾向はつかめるんじゃないかな。
大体1~30冊が占めてる感じ。
中央値は19冊。
平均値は42冊だけどコミケ直後かつバカ売れしてるのがあるのであまりアテにはならんか。
やはり食っていけるレベルはほぼ無理みたい。
まあ同人誌だから当然ちゃあ当然だけどね。
あるいは単に露出の場とだけ捉えて採算度外視するとか?

ノーベル文学賞はもっとカオスになればいい

ノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞したことに怒りの声を上げる作家が出てきている。
だが、そいつらに問いたい。
音楽が文学じゃないと言える根拠は何なのか?
そもそも文学というものは定義可能なものなのか?
私はあまり文学といわれる作品は読まない。
太宰、三島、宮沢賢治、漱石をちょっと読んだぐらいだ。
それでも同じカテゴリとして扱える作品は少なかった、と思う。
推理小説のように大枠が決まっているものとは違い、文学作品にこれといった特徴はないように思える。
つまりノンジャンルだ。
世界観もストーリー展開もキャラクターも不問だ。
エンタメのように話に起伏がなくてもいいし、オチがなくてもいい。
内容は本質ではない。

ならば文章形式か?
しかし詩は立派に文学の範疇ではないか。
演奏のために作られたとはいえ、それは詩としても成立している。
なぜ文学ではないと断言できるのか?
過去のノーベル文学賞を見ると、詩で受賞している人は幾人もいる。
なぜディランだけがダメなのか?
結局はこれなのだ。これこそが文学が衰退した理由。
せいぜいが文章表現が含まれた作品ぐらいのものなのに、それを勝手な理屈で狭めてしまっている。
だから見放される。
創作は自由なものだ。
中途半端に型を持った自由など何の魅力もない。

あらゆる文章表現を包摂するカオスこそが創作にふさわしく、それこそが文学ではないだろうか。
だからこれからは歌詞も漫画もラノベもゲームもとにかく文章が明確な構成要素になっている創作物なら媒体も表現形式も関係なく文学賞の対象にしてしまえばいい。
きっとそれはとても楽しい。

就活ログ1

初めての面接は都内の某社だった。
あまりに早く着きすぎて近くの公園をうろついていた。
季節は春、これから面接でなければさぞ気分は良かっただろうに。
私は気分を落ち着かせるために好きな音楽を聴いていた。
メロディアスな楽曲に、特徴のあるアルトボイス。
私が好きな同人サークルの曲。
しかしその後3年ぐらい、その歌は嫌な記憶をフラッシュバックさせるトリガーになってしまった。

時間になったので某社に入る。
担当の女性社員が案内してくれて会議室で待つことになった。
緊張で喉が渇いていたが、この部屋で飲んでいいものか逡巡し、結局飲めなかった。
しばらくして先ほどの女性社員が現れて面接会場へ案内される。
エレベーターに乗ったとき、緊張をほぐすためか話しかけられた。
昼食は食べたかと聞かれたのでカロリーメイトを食べたと答えた。
なぜこんなことを聞くのだろうと訝ったが、どうやら私の前に面接に来た人が緊張からか吐いてしまったらしい。
そりゃ警戒もするだろう。

面接会場の前に着き、私はドアをノックして名前を告げる。
入室許可が出たのでドアを開けると、なんと視界には4人もの面接官がいるではないか。
おまけに部屋はだだっ広く(おそらく大会議室)、面接官の座るテーブルと私が座るイスとの間には1メートルほどの距離があった。
離れた場所から4人に注視されるなど経験したこともない。
これは全くの想定外だったので、ただでさえ緊張していた私はガチガチになってしまった。
面接内容はもう覚えていない。
ただひとつ分かるのはひどい受け答えだったということぐらいだ。
質問が終わった後、イスから立ち上がろうとしてふらついてしまい、面接官から心配されるありさまだった。
部屋を出た後、某社の入り口まで案内される途中に、女性社員に成果を聞かれたので適当にごまかす。
失意と恐怖を抱え、それでも経験のなさゆえの浅はかな希望を感じつつ、私の初面接は終わった。

結果?当然お祈りだ。
とはいえ、ある程度予測はしていたのでそれほどの落胆は感じなかった。
面接で落ちたショックはかなり大きいとの事前情報を入手していたため、
「間違いなく落ちる」と自己暗示をかけていたこともショックを和らげた。
私は気持ちを切り替えて次の企業研究を始めた。
何回かやっていけばいつか通る、まだそんな明るい展望を描いていた。
だがこのときの私は知らない。
その後8か月にわたって続く就活地獄を――。

【読書感想文】里山資本主義――日本経済は「安心の原理」で動く

文体が興奮しすぎで「少し落ち着け」という気持ちになるが、主張には賛同できる。
お金だけに頼らないで生きていけるシステムの構築や資本主義の補助システムが必要だというのは良い主張だと思う。
資本主義に限らずあらゆるシステムは万能ではない。
だからそれをカバーする別のシステムを用意しておくことは必要だ。

ただこれって共産主義じゃね?と思う。
お金の代わりに人間関係やコトモノのやりとりを重視するあたりが。
余った農作物を融通したり労働力を提供したりというのは、つまり共同体の中で成果物を分配しているわけだし。
(ググったら里山共産主義と指摘している人がいた)
もちろんお金を否定しているわけではないので資本主義的な面もあるのだが。
「お金で測れない価値がある」のは事実だろうが、人間関係やその場の状況でレートが変動するのはめんどくさそうだなぁと思う。

木材加工から出た木くずをペレットにして発電や冷暖房器具に使用するバイオマスエネルギー利用は山林の多い日本には適していると思う。
エネルギーというのは生活に必須だ。
切れる手札は多ければ多いほどいいので、この方面の技術革新は進んでほしい。
火力原子力は燃料が外国依存なので比率が高いとリスクも高くなる。
このバイオマス発電だと全て自前で作れるので世界情勢なんかに振り回されずに済む。
まあ自前は自前で国内の影響を受けるわけだが、リスクヘッジとはそういうものだ。

里山「資本主義」という名称には違和感がある。
実際、名称だけ見たときは「自然に帰れ」みたいな印象を抱いていた。
その点は筆者らも気にしていたようで、資本主義か里山資本主義かの2択で考えることは文中で戒められている。
帯にも文中にも何度も出てくるが、あくまでもバックアップシステムとしての位置づけなので叩くのも無粋か。
まあいくら山林が多くても産業用電力まで賄うのは厳しかろうて。

個人的には金だけに頼る資本主義に危うさを感じていたため、この提案は魅力を感じる。
しかし一方で里山資本主義は絆を重視する点が受け入れがたい。
金にも絆にも頼らない別の道はないのだろうか。
模索していきたい。



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