白紙ソート

社会貢献とは?

社会貢献とはいったい何を言っているのか?

社会貢献という語は社会と貢献の合成語だ。
「社会」を辞書で引くと
1.(人間が)集まって生活を営む、その集団。
2.同類のなかま。
3.世の中。世間。

社会貢献という意味で2は狭すぎるから無視できる。
3の世間は社会という意味なので循環論法になっているから無視できる。

「貢献」を辞書で引くと
「何かのために力を尽くして寄与すること。」
とある。
「寄与」は役に立つことを行うこと。
力を尽くして何かのために役に立つことを行うこと
と言える。

ところで、力を尽くすの力は何を指すのか
体力?腕力?精神力?財力?技術力?知識?
それらを総合した能力だろうか。
ただ、尽くすといった場合、人生のすべての資源を費やすことになるが、
そんなことができる人はごく少数だろう。
そんなわずかな人だけが社会貢献しているとするならば、
あまりにも社会貢献という言葉が氾濫していると言わざるを得ない。
だから、ふつう貢献といった場合、単になんらかの役に立つことを指すと思われる。

つまり、社会貢献とは
「集まって生活を営む人間の集団のためになんらかの役に立つ事を行うこと」
となる。

さて、集団とはどの程度の規模を指すのか?
個人も集団と言えるが、数学的なのでここでは適切ではないだろう。
家族はどうだろう。
規模としては小さいし、家族に貢献という仰々しい言い方はしないだろう。
隣近所も狭い。
地域も社会貢献というよりは地域貢献になってしまう。
そういう区分を取り払った日本全体を指しているように思える。
さらに言えば、日本全体に分布している集団のうちのどれかという意味合いに思える。
たとえば社会貢献の代名詞というべき医者だったら、理論上全国の病人を助けられるから社会貢献になる。
医療器具のメーカーもあてはまる。
むしろ医療器具メーカーのほうが全国的でさえある。
医者は全国に分布しているからだ。
これを考えると無限に掘り下げられる。
医療機器メーカーが製品を開発するために必要な機器Aの製造メーカー、Aを製造するための機械Bを製造するメーカーといったふうだ。
さらにあらゆる機械の原材料となる素材製造のメーカー、素材を買い付けてくる商社、素材を採取する資源会社、素材を採取する機器を開発するメーカー・・・以下無限ループ。
そしてどんな集団も最終的にはそれらが活動するためのルールを作る国家に貢献され、国家という集団がそのルールを実行し、維持するための資金(税金)を提供する国民もまた社会貢献している。
税金を払っていない人間、とりわけ消費税を払ったことのない人間は小さい子を除けばまずいないだろう。
さらに、税金を払っていないというか払えない小さい子やホームレスの人も保育業者の役に立っているし、炊き出しボランティアの人の社会貢献欲を満たす役に立っているといえる。
善悪を抜きにすれば犯罪者でさえも治安維持を行う省庁や防犯系企業の維持や作家・メディアのネタ元やそれらを研究する学者や批評家の生活の役に立つ。
もちろん刺激を求める人々の日々の生活のスパイスとしても。

役に立つという言葉は実はかなり幅が広い。
この場合、すべての人間は存在しているだけでも何らかの形で、ある集団の役に立っている。
役に立たない人間も役に立たないがゆえに誰かの役に立っている。
ということは、すべての人間は
社会貢献=「集まって生活を営む人間の集団のために役に立つ事を行うこと」をしていることになり、わざわざこの言葉を口にする意味がなくなる。
なんのことはない、生きてるだけでも社会貢献なのだ。
正確には、生きている以上は社会と断絶することはありえないから何らかの形で影響を及ぼさざるを得ない。
その中で貢献という形をとることがたびたびある。
望むと望まざるとにかかわらず、社会に、社会の構成員の誰かに貢献してしまう。

社会貢献はもっと立派なものだというかもしれない。
一種のステータスとしての社会貢献であれば、目に見えて貢献しているボランティア団体などが社会貢献の代表格となろう。
だがわかりやすい人助けこそが社会貢献というなら、あまりにも傲慢で表面的すぎないだろうか。
そしてそのステータスを持ってないがゆえに苦しむとしたら、それはただの承認欲求で名誉欲ではないのか。
親のすねをかじって引きこもって課金ネトゲに興じる人も消費税を払っているし、ゲーム会社の利益に貢献している。
だからといって、これを社会貢献だと認めたくはない人が大勢だろう。
そう思うことこそが、社会貢献が一種のステータスだと認めていることの証明だ。
そんなものを欲する必要があるのか?

ふつうはそんなこと考えない、ただの詭弁だと思うかもしれない。
では「社会貢献」とは「ふつうは」いったい何を指し、何を指さないのか明確に説明できるのだろうか。
逆に社会貢献していないとは一体どういう状態を指すのか?
とりあえずこれを言っておけばいいやみたいな魔法の言葉に思えて仕方ない。
結局、個人個人が都合よく使っているだけの便利ワードと化しているのではないだろうか。
社会に貢献せよと言いつつ、その実他者を体よく利用しようとしているのではないのか?

社会貢献とはいったい何を言っているのか?

コミュニケーションの意味

意思伝達。
心の中で思っている伝えたいことを、言葉にして出力すること。
しかし意図通りに出力できているとは限らない。
適切な言葉を使えていない、あるいは不必要な情報を出力しているために。

適切な言葉は正しい意味の言葉であると同時に、相手にとって理解可能な言葉である必要がある。
小学生に科学論文を読ませても理解できない。
平易でかみ砕いた表現にして出力する必要がある。
伝達対象に合わせた表現形式フォーマットというものがある。
音声出力にテキストデータを食わせても文字は読めないし、MP3ファイルをメモ帳に突っ込んでも音楽は流れない。

また、伝達の際にはノイズデータは徹底して排除すべきだ。
特定情報だけを伝達したいのなら、余計な情報を付加すべきでない。
例えば啓蒙や布教する場合に、悪意や恫喝の感情を混ぜ込めば確実に反発が起きる。
それは明らかに本来の意図にそぐわない。
人種差別をやめさせるために「人種差別者は地獄に落ちろ」と恫喝すれば間違いなく反発される。
啓蒙したいならマイナスの感情というノイズをのせて言葉を発してはいけない。
逆に言えば、ノイズの乗った伝達方法を取るならば、相手に攻撃されているとの思いを抱かせることを覚悟しないといけない。
本来伝達したかったものが伝達されず、攻撃意志だけが伝達される事態もあり得ると理解すべきだ。

人間は思っている以上に話の中身を気にしていない。
でなければホメオパシーやニセ科学やカルト宗教や陰謀論がこれだけまかり通るわけがない。
人は話の中身より伝え方のほうを重要視するからこそ、見たいものしか見ないのだ。
何を伝達したいのか。
何を伝達したくないのか。
これをはっきりさせないと、次の「トランプ大統領」が生まれるだろう。

死刑と死生観

日弁連が死刑廃止の声明を発表した。
しかし相変わらず国民の1割未満しか反対していない。
なぜか?
日本で死刑が賛成されるのは外国と死生観が違うからではないか?

日本人は死ぬことに対して関心が薄いという仮説を立ててみる。
自然災害や戦争・内戦の頻発した日本では死に触れる機会があまりにも多かった。
そのために慣れてしまったのではないか。
死ぬことは異常なことではなく、何か外因があれば造作もなく死ぬ。
それが遺伝子に刷り込まれている、あるいは文化になっている。
人は理不尽に死ぬ。ましてや明確な理由があるなら。

行使主体が誰であろうと国であろうと死を与えること自体は問題にならない。
どうせ人間は偶然で死ぬ。
だから死刑もその一環に過ぎない。
ただしさすがに人為的な死は制限を設けている。
死刑になるのは大体が残虐な殺人や連続殺人だ。
これはおそらく個人レベルで行える限界の犯罪だ。
上限の罪には死を与える。
死を刑罰に組み込むことに違和感はない。

逆になぜ人権団体や欧米諸国はそこまで死を忌避するのかと疑問を覚える。
冷酷な計画殺人あるいは無差別殺人でさえ死を与えないという価値観はそれこそ不気味だ。
死神が死から遠ざけられるなんて笑い話にもならない。
死は常に地続きである。
生と死は表裏一体。生と死は隣り合わせ。
「命は大事」と「応報としての死」は両立する。
むしろ生命の尊厳を大事にするがゆえに報いの死が必要なのだ。
それは日本人の中で絶対的な基準となっている。
人権屋の「殺人犯の命も大事」というリクツは通らない。
どんな論理もこの死生観の前には意味をなさない。

小説新人賞考

選考基準は曖昧だ。テストで何点取ったら合格というようなわかりやすいものではない。
しかし選考基準がある以上、明確な方向性はある(でなければランダムに選考していることになる)
努力する方向性がある。
ならばそれを探れば到達できる。
ベクトルとスカラが定まれば道は自ずと決まる。
ではベクトルとスカラは何か?

断片的な情報は腐るほどある。
その情報を統合していかにベクトルを形成するか。
なんとなく見えているのだが、言葉にできないし、具体的行動に落とし込むこともできない。
まず言葉にしないといけない。
それは不定形のパラメータも織り込んだもの(熱量とか)。

作品内で必要なパラメータはどんな種類があるか?
パラメータの優先評価順位、優先育成順位はどうか?
基準を突破するパラメータのバランスは何か?
バランスは賞の種類によって変わってくるがパラメータは列挙できるはずだ。

エネルギーをある枠組みで固定し出力する。
入力エネルギーを関数で変換して人間が理解できるフォーマットにして出力する。
これが広義の表現だ。
エネルギーは一言で説明できる単純なもの
=こんなバトルが見たい、社会問題を批判したい、こんな心を描きたい、百合書きたい、好きなものなど
=芯

表現創作は自由なものだが、賞(コンテストorコンペ)の場合は自由ではない。
それはほかのと同じで小説だけを特別扱いするほうがおかしい。
コンテストは部門が決まっているし審査基準も決まっている。
ある程度型にはまったものを作らないといけない。
加えて小説賞の場合は1冊で刊行するという特殊性がある。
商業用パッケージのフレームワークを意識する必要がある。
なんでもありというのはウソで、あくまでもその賞orレーベルのフレームワークの範疇でなんでもやっていいというだけだ。
推理小説の賞に単純な歴史合戦ものを送っても下読みで弾かれる。
それはフレームワークの外だからだ(ただし歴史ミステリとかなら枠の中になる)。

上記を踏まえた新人賞用制作フレームワークは以下のように定義してみる。
入力フレームワーク:芯=表現したいものの設定
商材フレームワーク:応募規定全般、枚数上下限、続編前提の消化不良厳禁(犯人が次巻とか)
レーベルのフレームワーク:ジャンル、読者層
小説フレームワーク:キャラ、ストーリー、世界観
∟面白さフレームワーク:新味、上記の魅力、驚き、インパクト、多様性(非単調性)など
出力フレームワーク:上記の網羅的描写、魅力的な描写、魅せて伝達する能力、分量の調整(熱量も含む)

この順で入力。液体をフィルタリングするイメージ?
ぶっちゃけ出力以外はプロットのことになるか。

つづく?

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